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既往文化と新文化

一体、国防国家といふものゝなかで、文化はどういふ取扱ひを受けるべきかといふ問題ですが……この点に関しては、実にいろいろの意見があるやうです。すなはち、文化問題に就いてはまだ考へ及んでゐない、これは後廻しだといふ説が出たり、或る場合には、今までとにかく出来上つてゐる文化自体を、こゝで利用すべきだと考へられたり、一方また既往の考へ方では文化の発展などは望まれず、全く、国防国家のために必要な文化だけをこれから作り上げるべきだといふ考へ方等々が今日ではごつたになつてをるわけです。こいつを僕等はもう一応はつきりと決めてかゝらなければいけないと思つてをります。

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器楽的幻覚

休憩の時間が来たとき私は離れた席にいる友達に(めくば)せをして人びとの肩の間を屋外に出た。その時間私とその友達とは音楽に何の批評をするでもなく黙り合って煙草を吸うのだったが、いつの間にか私達の間できまりになってしまった各々の孤独ということも、その晩そのときにとっては非常に似つかわしかった。そうして黙って気を鎮めていると私は自分を捕えている強い感動が一種無感動に似た気持を伴って来ていることを感じた。煙草を出す。口にくわえる。そして静かにそれを吹かすのが、いかにも「何の変わったこともない」感じなのであった。――燈火を赤く反映している夜空も、そのなかにときどき写る青いスパークも。……しかしどこかからきこえて来た軽はずみな口笛がいまのソナタに何回も繰り返されるモティイフを吹いているのをきいたとき、私の心が鋭い嫌悪(けんお)にかわるのを、私は見た。

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黄色な顔

私は私の仲間の話をしようとすると、我知らず失敗談よりも成功談が多くなる。無論それらの話の中では、私は時によっては登場人物の一人になっているし、でなくても私はいつも深い関心を持たせられているのだが、――しかしこれは何も、私の仲間の名声のためにそうするわけではない。なぜなら事実において、私の仲間の努力と、多種多様な才能とは(しん)に称讃すべきものではあったけれども、それでもなお、彼の思案に余るような場合があったからだ。ただどうかしてそんな場合にぶつかって私の仲間が失敗したような所では、()の者もまた誰一人成功したものはなく、事件は未解決のまま残されるわけである。けれど時々、ちょっとした機会から、彼がどんな風にしてその真相を誤解したかと云うことが、後から発見されたこともある。私はそんな場合を五つ六つ書き止めておいた。そのうち今ここですぐお話出来るものが二つある。そしてそれはそれらのうちでも一番面白いものである。

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麻雀を語る

(はなし)はだいぶ(ふる)めくが、大正(たいしやう)十一(ねん)(あき)()る一()のことだ。三ヶ(げつ)ほどの南北支那(なんぼくしな)(たび)(をは)つて、明日(あした)はいよいよ(なつか)しい故國(ここく)への船路(ふなぢ)()かうといふ(まへ)(ばん)、それは乳色(ちゝいろ)夜靄(よもや)(まち)燈灯(ともしび)をほのぼのとさせるばかりに()()めた如何(いか)にも異郷(いきやう)(あき)らしい(ばん)だつたが、(ぼく)消息通(せうそくつう)の一(いう)()()つて上海(シヤンハイ)(まち)をさまよひ(ある)いた。()四馬路(スマロ)菜館(さいくわん)廣東料理(くわんとんれうり)舌皷(したつゞみ)[#ルビの「したつゞみ」は底本では「したつ゛み」]()ち、()外國人(ぐわいこくじん)のバアでリキユウルをすすり、日本料理屋(にほんれうりや)藝者達(げいしやたち)長崎辯(ながさきべん)()き、(さら)にフランス租界(そかい)秘密(ひみつ)阿片窟(あへんくつ)阿片(あへん)まで()つてみた。
「さア、もう一ぺん四馬路(スマロ)散歩(さんぽ)だ。」
 と、お(たがひ)微醺(びくん)()びて(へん)(はづ)()つた氣分(きぶん)黄包車(ワンポイソオ)()り、(ふたゝ)四馬路(スマロ)大通(おほどほり)()たのはもう(よる)の一()()ぎだつた。
 

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私の歩いてきた道

 早稲田に入ったのは、大正(〔七〕)年で学校騒動で永井柳太郎、大山郁夫氏等が教授をやめられた年の九月であるが、早稲田を志望したのは早稲田は大隈重信侯が、時の官僚の軍閥に反抗して学問の独立、研究の自由を目標として創立した自由の学園であるという所に青年的魅惑を感じて憧れて入学したのである。丁度当時は、第一次欧洲戦争の影響で、デモクラシーの思想が擡頭して来た時代である。
 そこで、学生の立場から民主主義、社会主義の研究を始めたのであるが、外部の社会主義運動、労働運動からの影響もあって学生の中に、思想的に飛躍しようとする者と、実際の面に即した者と、二つの流れが出てきた。
 思想的に行こうとするのは、高津正道氏などがその側で、あの人達は、だんだん発展して、日本における最初の共産党事件、暁民共産党事件に連坐した。我々は建設者同盟をつくり、その指導者とも云う可き北沢新次郎教授が池袋に住んでいたので、その裏に同盟本部を設置して社会主義学生の共同生活が行われた。
 当時の仲間は、和田巌、中村高一、平野力三、三宅正一、川俣清音、宮井進一、吉田実、田所輝明、稲村隆一等々で、学生が若き情熱に燃えて社会主義社会を建設するという理想の下に民衆の中へというモットーが労働運動、農民運動と連絡しながら日本労働総同盟、日本農民組合と関係を持って実際的の運動をやるようになった。私は労働運動の方でも、鉱夫組合の運動に興味をもって当時足尾の鉱山にはよく行ったものである。
 学生時代での一番の思い出は、大正十二年五月十日だと思うが、その頃、早稲田に軍事研究団というものができた。早稲田は何といっても、自由の学園で、大隈重信侯が官僚軍閥に反抗してつくった学校であるから、ここを軍国主義化することができれば、大学の所謂学生運動全体に甚大な影響を与えることができるという立場からだと思うが、軍部のお声がかりで学校当局並びに学生の一部が参加して軍事研究団なるものをつくって、講堂で発会式を挙げた。そのころ早大内部の学生運動は、文化同盟という形で集結されておったが、その連中、軍事研究団の発会式に傍聴に出かけて猛烈なる弥次闘争を展開した。

 

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