撰(えら)ばれてあることの
恍惚(こうこつ)と不安と
二つわれにあり
ヴェルレエヌ
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目(しまめ)が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。 私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。 その日その日を引きずられて暮しているだけであった。下宿屋で、たった独りして酒を飲み、独りで酔い、そうしてこそこそ蒲団(ふとん)を延べて寝る夜はことにつらかった。夢をさえ見なかった。疲れ切っていた。何をするにも物憂かった。「汲(く)み取り便所は如何(いか)に改善すべきか?」という書物を買って来て本気に研究したこともあった。彼はその当時、従来の人糞(じんぷん)の処置には可成(かなり)まいっていた。
新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊(いしころ)がのろのろ這(は)って歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな。ただそう思うていた。しかし、その石塊(いしころ)は彼のまえを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引摺(ひきず)っているのだということが直ぐに判った。
子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄(やけ)が淋しかったのだ。
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