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この望遠鏡製作所に勤めて、もう半年あまり経ち、飽性(あきしやう)である僕の性質を知つてゐる友人連は、あいつにしては珍らしい、あの朝寝坊がきちん/\と朝は七時に起き、夕方までの勤めを怠りなくはたして益々愉快さうである、加(おま)けに勤めを口実にして俺達飲仲間からはすつかり遠ざかつて、まるで孤独の生活を繰返してゐるが、好くもあんなに辛抱が出来たものだ――などゝ不思議がり、若しかすると、あいつ秘かに恋人でも出来て結婚の準備でもしてゐるのかも知れない――そんな噂もあるさうだが――そんなことは何うでも構はない。
兎も角僕は、この勤めは至極愉快だ。
僕は、Girl shy といふ綽名を持つてゐるが、近頃思ひ返して見ると僕のそれは益々奇道に反れて――これは何うも、変質者と称んだ方が適当かも知れない。恥しい話だ。
こんな秘かな享楽は、他言はしないことにしよう。
二
製作所の屋上に展望室と称する一部屋があつて、これが僕の仕事場である。僕は此処で終日既成品の試験をするために、次々の眼鏡を取りあげて四囲の景色を眺めてゐるわけである。楽器製作所の試音係と同様の立場である。四畳半程の広さをもつた展望室には、僕を長として
河沿いの地面から、太陽はその透きとおった黄いろい光線をだんだんに引上げて行った。河端の烏臼木(うきゅうぼく)の葉はからからになって、ようやく喘ぎを持ち堪えた。いくつかの藪蚊は下の方に舞いさがって、ぶんぶんと呻った。農家の煙筒のけむりは刻一刻と細くなった。女子供は門口の空地に水を撒いて、小さな卓子(テーブル)と低い腰掛をそこに置いた。誰にもわかる。もう晩飯の時刻が来たのだ。
老人と男たちは腰掛の上にすわって無駄話をしながら大きな芭蕉団扇をゆらめかした。子供等は飛ぶが如くに馳(か)け出した。ある者は烏臼木の下にしゃがんで賭けをして石コロを投げた。女は真黒な干葉と松花のような黄いろい御飯を持ち出した。熱気がもやもやと立上った。
文人の酒船は河中を通った。文豪は岸を眺め大(おおい)に興じた。「苦労も知らず、心配も知らず、これこそ真に田家の楽しみじゃ!」
けれど文豪のこの話はいささか事実に背反している。彼は九斤老太(きゅうきんろうたい)の話をききのがしていたからだ。この時九斤老太は不平の真ッ最中であった。「わしは命あって七十九のきょうまで生き延びたが、あまり長生きをし過ぎた。わしは世帯(しょたい)くずしのこのざまを見たくはない。いっそ死んだ方が増しじゃ。もうじき御飯だというのに、また煎り豆を出して食べおるわい。これじゃ子供に食いつぶされてしまうわ」
彼の孫娘の六斤(ろくきん)はちょうど、一掴みの煎り豆を握って真正面から馳け出して来たが、この様子を見て、すぐに河べりの方へ飛んで行き、烏臼木の後ろに蔵(かく)れて、小さな蝶々とんぼの頭を伸ばして「死にそこないの糞婆」と囃し立てた。
九斤老太は年の割に耳が敏(はや)かった。けれど今の子供の言葉はつい聴きのがした。そうしてなお独言(ひとりごと)を続けた。「ほんとにこんな風では代々落ち目になるばかりだ」
私は、いろんなものを持っている。
そのいろんなものは、私を苦しめるために活躍した。私の眼は、世間や自然をみて、私をかなしませた。私の手足も徒労にすぎないことばかりを行って、私をがっかりさせた。考えるという働きも、私を恐怖の淵につれてゆき、さかんに燃えたり、或いは、静寂になったりする感情も、私をつかれさせただけである。
しかし、その中でたった一つ、私は忘却というものが、私を苦しめないでいたことに気がついた。忘却が私を生かしてくれていたのだ。そして私は、まがりくねった道を、ある時は、向う見ずにつっ走り、ある時は、うつむきながらとぼとぼあるいて来た。それなのに、突然今日、私はふりむくことをした。何故だろうか。もやもやした煙で一ぱいの中から、わざわざたどって来た道を見付け出さないでは居られない衝動にかられた。つまり、記憶を呼び戻そうとするのである。忘却というものを捨てようとしているのである。忘却を失ったら私は生きてゆけないというのに。
私は、死という文字が私の頭にひらめいたのを見逃さなかった。飛行機にのって、さて自爆しようという時に、一瞬に、過ぎ去った思い出が、ずらずらと並べたてられるのだ、ということを、私は度々人から聞いたことがある。私は今、死に直面しているのではない。が突然、発作的に起った私のふりむきざまが、死を直感し、運命というような、曖昧なものにちがいないけれども、それが、私の胸をきつくしめつけた。
私は、だんだん鮮かに思い出してゆく。おどけた一人の娘っ子が、灰色の中に、ぽっこり浮んだ。それは私なのである。私のバックは灰色なのだ。バラ色の人生をゆめみながら、どうしても灰色にしかならないで、二十歳まで来てしまった。そんなうっとうしいバックの前でその娘っ子が、気取ったポーズを次々に見せてくれるのを私は眺めはじめた。もうすでに幕はあがっている。
中国という国へ、イギリスやアメリカの婦人宣教師が行って、そこで生活するようになってから、何十年の年月が経ったであろう。それらの婦人たちは、それぞれの歴史的な時期で中国の男女の生活を見聞きして、生活の交渉をもって来たわけであるが、パァル・バックの作品を知るまで私は、そういう条件で中国にいて、中国を小説に描いたヨーロッパの婦人作家を知らなかった。
「大地」「母」などを、私は深い興味をもって示唆されるところ多く読んだ。正宗白鳥氏が嘗て「大地」の評を書いておられたが、その文章ではバックの淡々たる筆致が中国の庶民の生活をよく描き出しており、それは、バックがヨーロッパ人の優越感によって、中国の民衆の現実を客観しているところから生じる芸術的効果である。よい作品を書くに当って、この客観的な態度というものもまた価値がある云々という意味のことが書かれていたと覚えている。
「大地」や「母」などをよみ、私は、正宗さんの批評をそれだけ読んだ折にも心に感じた疑問を、一層作品の具体的な描写によって深められた。正宗さんの云われているヨーロッパの人としての優越感からの客観性が、果してこの作品の魅力となっている人間らしさを生んでいるのであろうか。或はまた、もっと複雑な何かがあるのではないかと。正宗さんの批評では、客観的態度というものを、作者が描こうとしている現実対象に心をとらわれていず、そこから自分の心をひきはなして、現実の悲喜の彼方に自分を置いた作者がその距離から悲喜をかく態度として云われていると思う。だが、バックの現実に対する態度は果してそうであろうか。
今東光(こんとうくわう)君は好学の美少年、「文芸春秋」二月号に桂川中良の桂林漫録を引き、大いに古琉球風物詩集(こりうきゆうふうぶつししふ)の著者、佐藤惣之助君の無学を嗤(わら)ふ。瀟麗(しゆくれい)の文章風貌に遜(あきた)らず、風前の玉樹も若(し)かざるものあり。唯疑ふ、今君亦石敢当(せきかんたう)の起源を知るや否や。今(こん)君は桂川中良と共に姓源珠(せいげんしゆき)の説を信ずるものなり。されど石敢当に関する説は姓源珠 に出づるのみにあらず、顔師古(がんしこ)が急就章(きふしうしやう)(史游)の註にも、「衛有石※[#「石+昔」、186-上-10]鄭有石癸斉有石之紛如其後亦以命族石敢当」とあり。その何れを正しとすべき乎(か)、何人も疑ひなき能はざるべし。徐氏筆精に云ふ「二説大不相 亦日用不察者也」と。然らばその起源を知らざるもの、豈(あに)佐藤惣之助君のみならんや。桂川中良も亦知らざるなり。今東光も亦知らざるなり。知らざるを以て知らざるを嗤(わら)ふ、山客亦何ぞ嗤はざるを得んや。按(あん)ずるに鍾馗(しようき)大臣の如き、明皇(めいくわう)夢中に見る所と做(な)すは素(もと)より稗官(ひくわん)の妄誕(まうたん)のみ。石敢当も亦実在の人物ならず、無何有郷裡(むかいうきやうり)の英雄なるべし。もし又更に大方(おほかた)の士人、石敢当の出処を知らんと欲せば、秋風禾黍(くわしよ)を動かすの辺、孤影蕭然たる案山子(かかし)に問へ。
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