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坂の上の、大きな松の樹のある村總代の家で、あるきを呼ぶ太鼓の音が、ドーン、ドーン、ドン/\/\/\/\と響いてゐたのは、ツイ先刻のことであつたが、あるきの猪之介は、今のツそりと店へ入つて來て、薄暗い臺所の方を覗き込みながら、ヒヨロ高い身體を棒杭のやうに土間の眞ん中に突ツ立てゝゐる。
店には誰れもゐないで、大きな眞鍮の火鉢が、人々の手摺れで磨きあげられたやうに、縁のところをピカ/\光らして、人間ならば大胡坐をかいたといふ風に、ドツシリと疊を凹ましてゐる。
「猪のはん、何んぞ用だツか。」と、若女將のお光は、
「あゝお光つあん、其處だツか。……お母んが留守で忙しおまツしやろ。」
鼻をひこつかせるやうにして、猪之介は竹格子の間に白く浮き出してゐるお光の顏らしいものを、目脂の一杯に溜つた眼で見詰めた。
「お母アはんの居やはれへんとこへ、役場からあんなこというて來やはるよつて、ほんまに難儀や。」
晝食の客に出した二人前の膳部の喰べ殼の半ば片付いた殘りを、丁ど下の川端の洗ひ場で莖漬けにする菜を洗ひ上げて來た下女に讓つて、お光は板場からクルリと臺所へ
一番ではあるが、際立つて小振りの丸髷に裏葉色の手絡をかけて、ジミな縞物の袷せのコブコブした黒繻子の襟の間から、白く細い頸筋が、引ツ張れば拔け出しさうなお女郎人形のやうに、優しく婀娜かしかつた。
すらりとした撫で肩を一寸搖つて、青い襷を外してから、何心なく火鉢に手をやつて、赤味の勝つた細い比翼指輪の光る、華奢な指に握らせるには痛々しいと思はれるほどの、太い鐵作りの火箸を取り上げた。
たのしい春の日であった。
花ざかりなるその広い原っぱの真中にカアキ色の新しい軍服を着た一人の兵隊が、朱い毛布を敷いて大の字のように寝ていた。
兵隊は花の香にむせび乍ら口笛を吹いた。
何という素晴しい日曜日を兵隊は見つけたものであろう!――兵隊は街へ活動写真を見に行く小遣銭を持っていなかったので、為方がなく初めてこの原っぱへ来てみたのだった。
兵隊は人生の喜びのありかがやっと判ったような気がした。
兵隊はふと病気にかかっているのではないかと思った。
兵隊の額の上にはホリゾントの青空の如く青々と物静かな大空があった。
兵隊は何時しか口笛を忘れて、うつとりとあの青空に見惚れた。
兵隊は青空の水々しい横っ腹へ、いっぱつ鉄砲を射ち込んでやりたい情欲に似た欲望を感じたのだ。ああ一体それはどういうことなのだ?
兵隊は連隊きっての射撃の名手であった。
兵隊は鉄砲をとりあげると、あおむけに寝たまま額の真上の空にねらいをつけてズドンと射ち放した。
すると弾丸は高く高くはるかなる天の深みへ消えて行った。
兵隊はやはり寝たまま鉄砲をすてて、そして手近な花を摘んで胸に抱いた。それからさて兵隊はスヤスヤと眠った。
何分か経つと、果して兵隊のすぐれた射撃によって射ち上げられた弾丸は、少しの抛物線をも画く事なしに、天から落下して来て兵隊の額の真中をうち貫いた。それで花を抱いて眠っていた兵隊は死んでしまった。
シャアロック・ホルムズが眼鏡をかけて兵隊の死因をしらべに来たのだが、この十九世紀の古風な探偵のもつ観察と推理とは、兵隊の心に宿っていたところの最も近代的なる一つの要素を検出し得べくもなかったので、探偵は頭をかいて当惑したと云う。
千年あまりも前に、我々の祖先の口馴れた「ある」と言ふ語がある。「産る」の敬語だと其意味を釈き棄てたのは、古学者の不念であつた。私は、ある必要から、万葉集に現れたゞけの「ある」の意味をば、一々考へて見た処、どれも此も、存在の始まり、或は続きといふ用語例に籠つて了うて、一つとして「産る」と飜さねば不都合だと言ふ場合には、出くはさずにすんだ。かの語を「産る」と説くのは、主に賀茂のみあれに惹かれた考へであるが、実の処みあれ其物が、存在を明らかに認める、即、出現と言ふ意に胚胎せられた語だと信じられる。
此事は柳田国男先生も既に考へて(山島民譚集)居られる。尤、神或は神なる人にかけて、常に使ひ馴れた為、自然敬意を離れては用ゐる事は無くなつてゐた。其一類の語に「たつ」と言ふのがある。現在完了形をとつたものは、「向ひの山に月たゝり見ゆ(万葉巻七)」など言ふ文例を止めて居る。此語は単に、今か以前かに標準を据ゑて、進行動作を言ふだけのものではなく、確かに「出現」の用語例を持つて居た。文献時代に入つては、月たち・春たつなどに纔かに、俤を見せて居たばかりで、敬語の意識は夙くに失はれてゐる。
諏訪上社の神木に、桜たゝい木・檀たゝい木・ひくさたゝい木・橡の木たゝい木・岑たゝい木・柳たゝい木・神殿松たゝい木があり、たゝいは「湛」の字を宛てる由、尾芝古樟氏(郷土研究三の九)は述べられた。此等七木は、桜なり、柳なりの神たゝりの木と言ふ義が忘れられた物である。大空より天降る神が、目的と定めた木に憑りゐるのが、たゝるである。即、示現して居られるのである。神の現り木・現りの場は、人相戒めて、近づいて神の咎めを蒙るのを避けた。其為に、たゝりのつみとも言ふべき内容を持つた語が、今も使ふたゝり(祟)の形で、久しい間、人々の心に生きて来たのである。
三尊(さんぞん)四天王十二童子十六羅漢(らかん)さては五百羅漢、までを胸中に蔵(おさ)めて鉈(なた)小刀(こがたな)に彫り浮かべる腕前に、運慶(うんけい)も知(し)らぬ人(ひと)は讃歎(さんだん)すれども鳥仏師(とりぶっし)知る身の心耻(はず)かしく、其道(そのみち)に志す事(こと)深きにつけておのが業(わざ)の足らざるを恨み、爰(ここ)日本美術国に生れながら今の世に飛騨(ひだ)の工匠(たくみ)なしと云(い)わせん事残念なり、珠運(しゅうん)命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈(た)ケを尽してせめては我が好(すき)の心に満足さすべく、且(かつ)は石膏(せっこう)細工の鼻高き唐人(とうじん)めに下目(しため)で見られし鬱憤(うっぷん)の幾分を晴(は)らすべしと、可愛(かわい)や一向専念の誓を嵯峨(さが)の釈迦(しゃか)に立(たて)し男、齢(とし)は何歳(いくつ)ぞ二十一の春是(これ)より風は嵐山(らんざん)の霞(かすみ)をなぐって腸(はらわた)断つ俳諧師(はいかいし)が、蝶(ちょう)になれ/\と祈る落花のおもしろきをも眺(なが)むる事なくて、見ぬ天竺(てんじく)の何の花、彫りかけて永き日の入相(いりあい)の鐘にかなしむ程凝(こ)り固(かたま)っては、白雨(ゆうだち)三条四条の塵埃(ほこり)を洗って小石の面(おもて)はまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水(しみず)に、瓜(うり)浸して食いつゝ歯牙香(しがこう)と詩人の洒落(しゃれ)る川原の夕涼み快きをも余所(よそ)になし、徒(いたず)らに垣(かき)をからみし夕顔の暮れ残るを見ながら白檀(びゃくだん)の切り屑(くず)蚊遣(かや)りに焼(た)きて是も余徳とあり難(がた)かるこそおかしけれ。顔の色を林間の紅葉(もみじ)に争いて酒に暖めらるゝ風流の仲間にも入(い)らず、硝子(ガラス)越しの雪見に昆布(こんぶ)を蒲団(ふとん)にしての湯豆腐を粋(すい)がる徒党にも加わらねば、まして島原(しまばら)祇園(ぎおん)の艶色(えんしょく)には横眼(よこめ)遣(つか)い一(ひ)トつせず、おのが手作りの弁天様に涎(よだれ)流して余念なく惚(ほ)れ込み、琴(こと)三味線(しゃみせん)のあじな小歌(こうた)は聞(きき)もせねど、夢の中(うち)には緊那羅神(きんならじん)の声を耳にするまでの熱心、あわれ毘首竭摩(びしゅかつま)の魂魄(こんぱく)も乗り移らでやあるべき。
よほど以前のことになるが田村俊子氏の小説で、二人とも小説をかくことを仕事としている夫婦の生活があつかわれているものがあった。筋や、そのほかのことについてはもう思い出せないのであるが、今も焙(や)きついた記憶となって私の心にのこっている一場面がある。何か夫婦の間の感情が気まずい或る日、妻である婦人作家が二階の机の前で小説が進まず苦心していると、良人である男の作家がのしのし上って来て、傍から、何だ! そんなことじゃ先が見えてる。僕なんか三十枚ぐらいのものなら一晩で書くぞという意味の厭がらせを云って、妻の作家の苦しい心持を抉るようにする。しかも、良人である作家は、その時もう創作が出来ないような生活の気分に陥っているのが実際の有様であったというようないきさつが、田村氏独特の脂のつよい筆致で描かれているのであった。
私は、その小説を読んだ時、二十前後であったと思うが、深刻な感銘をうけた。自分の女としての一生についても考え、いつかしらぼんやり感じていたことを改めてはっきり、自分は決して作家を良人には持つまいと心にきめたのであった。
それから後、又何程か経って、女の作家として私の持つその考えを更に内容的に多様化し確めるような一組の作家夫婦を見た。いずれも文学的公人であるから名をあげることをも許されると信じるが、その夫婦は佐佐木茂索氏夫妻である。
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