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兵隊の宿

 坂の上の、大きな松の樹のある村總代の家で、あるきを呼ぶ太鼓の音が、ドーン、ドーン、ドン/\/\/\/\と響いてゐたのは、ツイ先刻(さつき)のことであつたが、あるきの猪之介は、今のツそりと店へ入つて來て、薄暗い臺所の方を覗き込みながら、ヒヨロ高い身體を棒杭のやうに土間の眞ん中に突ツ立てゝゐる。
 店には誰れもゐないで、大きな眞鍮の火鉢が、人々の手摺れで磨きあげられたやうに、(ふち)のところをピカ/\光らして、人間ならば大胡坐(おほあぐら)をかいたといふ風に、ドツシリと疊を凹ましてゐる。
()のはん、何んぞ用だツか。」と、若女將のお光は、 物の香や酒の香の染み込んだらしい、醤油のやうな色をした竹格子の奧の板場から聲をかけた。
「あゝお光つあん、其處だツか。……()んが留守で忙しおまツしやろ。」
 鼻をひこつかせるやうにして、猪之介は竹格子の間に白く浮き出してゐるお光の顏らしいものを、目脂(めやに)の一杯に溜つた眼で見詰めた。
「お()アはんの居やはれへんとこへ、役場からあんなこというて來やはるよつて、ほんまに難儀や。」
 晝食の客に出した二人前の膳部の喰べ殼の半ば片付いた殘りを、丁ど下の川端の洗ひ場で莖漬けにする菜を洗ひ上げて來た下女に讓つて、お光は板場からクルリと臺所へ はり、其處の岩乘(がんじよう)な縁の廣い長火鉢の前に腰をかけた。
 一番ではあるが、際立つて小振りの丸髷に裏葉色の手絡をかけて、ジミな縞物の袷せのコブコブした黒繻子の襟の間から、白く細い頸筋が、引ツ張れば拔け出しさうなお女郎人形(やまにんぎやう)のやうに、優しく婀娜(なまめ)かしかつた。
 すらりとした撫で肩を一寸搖つて、青い襷を外してから、何心なく火鉢に手をやつて、赤味の勝つた細い比翼指輪の光る、華奢(きやしや)な指に握らせるには痛々しいと思はれるほどの、太い鐵作りの火箸を取り上げた。
 

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